九州を代表する暴れ川、筑後川について解説!

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筑紫次郎の異名を持つ九州の暴れ川

筑後川はは日本3大暴れ川の1つで「筑後次郎」という異名を持ちます。

 

関東の利根川を坂東太郎、四国の吉野川を四国三郎と呼び、3つの川は兄弟のように見立てられました。

筑後川について

 

川の長さ:143km

川の広さ:2,860k㎡

川の始まり:九重連山(大分県竹田市)・阿蘇外輪山(熊本県阿蘇市)

始まりの高さ:?m

さまざまな山からいくつもの川が集まり、最終的に大きな川の筑後川になります。

 

筑後川は阿蘇山を水源として、熊本県から大分県→福岡県→佐賀県と4県をまたぎ、肥沃な筑紫平野を形成し、有明海へ流れる九州最大の川です。

筑後川の歴史

筑後川はかつて千歳川(ちとせがわ)、築間川、一夜川と呼ばれていたそうです。

 

江戸時代以前は、筑前と筑後の間の意味をとって築間川と呼ばれていましたが、江戸幕府の命令により、筑後川と呼ばれるようになりました。

 

また、鎌倉時代に作られた一首に千歳川(ちとせがわ)と呼ばれた記録があります。

 

一夜川については、川周辺に大雨が降ると一夜にして荒涼土地に変貌することから一夜川と呼んだといいます。

 

ダム反対運動の舞台となった川

そんな暴れ川である筑後川は、1953年に被災者約54万人、死者147人を出す大洪水災害を起こします。

この水害に対応するため、当時の建設省九州地方建設局は、筑後川の水を堰き止める下筌(しもうけ)ダムの建設計画を開始します。

 

しかし、ダムを作る場所には、多くの集落があり、先祖代々から暮らしている住民たちがいます。

当時は、そういった移転をさせられる住民への補償も十分にはありませんから、数々の反対運動が起こります。

そんな中で日本最大のダム反対運動と言われるのが、室原知幸らが起こした「蜂の巣城紛争」です。

 

1957年より、ダム建設は計画されましたが、室原知幸をはじめとするダム建設を反対する地域住民による運動が起きました。

 

1960年、室原は自費で下筌ダム建設予定地に蜂の巣城というバリケードを作り、ダム建設に反抗しました。

 

4年後、行政の手により蜂の巣城は撤去されるものの、繰り返し蜂の巣城を作り続け、ダム建設反対運動の手を緩めませんでした。

 

室原が亡くなる1970年まで抵抗は続き、紛争後には水源地域住民の生活安定と福祉向上を図る水源地域対策特別措置法という新たな法律も施行されます。

 

室原知幸は、「公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない」という言葉を残します。

ダム建設などの公共事業は、合理的であっても、法律に乗っ取っていても、人々の生活や思いも考えていかなければならないということです(深い・・・)。

 

下筌ダムによって、できた人造湖の名前は、この蜂の巣城紛争にちなんで、「蜂の巣湖」と名付けられました。

 

激しい反対運動が行われた歴史があったことを伝える名前となっています。

 

 

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