ダムの歴史 〜ダムの始まりから、現在まで〜

自然を学ぶ

川を知る上で欠かせない存在であるダム・・・

 

ダムの歴史を知ることは多くの学びがあります。

 

ぜひ御一読ください!!

ダムの歴史は古くからあった!

上の写真のような、みなさんが想像するコンクリートのダムが作られたのは20世紀からですが、水を貯めるだけのダムは古代から人間は作ってきました

 

昔から、人類にとって水はなくてなはらないもの

 

その恵みの水を貯めるために、土を掘るなどして池を作りました。

これがダムの始まりです。

 

ダムの目的の変化は・・・

豊作のために水を貯めたい!
     ↓
洪水を防ぐために水を貯めたい!
     ↓
水道水で使うための水を貯めたい!
     ↓
水力発電をするための水を貯めたい!

このような感じでしょうか。

 

時代を追って見ていきましょう!

世界最古のダムは紀元前2750年!

※写真はピラミッドです(ダムと関係なし)

 

人類史上、初めてダムが建設されたのは古代エジプト時代のサド・エル・カファラダムと考えられています。

 

約10万トンの石材でつくられ、堤高11m、堤頂長は106mの大きさのダムです。

 

古代より、ダムは世界各地でつくられていたと考えられており、衰退により、現在はその姿はありません。

日本最古のダムは616年頃!

日本最古のダムは、大阪府大阪狭山市にある狭山池から始まっています。

この頃の考えは、農業をするための水が足りない!池を掘って水を貯めよう!というものです。

 

狭山池については、さまざまな諸説がありますが、水を貯めるためのダムとしてつくられたとされています。

 

1400年の年月を経て、決壊や改修が繰り返され、現在も形を残している日本最古のダムと言われています。

江戸時代、ダムの数は急増!

江戸時代の1601〜1868年で540カ所のダムがつくられました

 

この数は、現在のダムの4分の1を占めます・・・驚

 

江戸時代より前の戦国時代から米の生産に対する意欲は高まっていきます。

米を生産するため、川や池などの岸に沿って土を高く盛りあげた堤をつくっていたことが知られています。

 

また、米生産のために利根川の流れを変えたことも有名です。

江戸時代、利根川本流は荒川と合流し、江戸湾(東京湾)に流れていましたが、徳川家康は太平洋岸の銚子へと川の流れを付け替えて米生産を図ります。

武士の収入は米を単位として与えられ、庶民からも米は馴染みのあるものとなっていきます。

 

水を制するものは天下を制するもの

 

それほど、ダムの功績は偉大なものでした。

明治時代、水道としての水需要が高まる

この頃、経済の発展により、人口が増加していき、水道整備の重要性が叫ばれてきました。

(写真は、中島川の眼鏡橋)

 

そして、長崎県長崎市で初めて水道用のダム建設が手掛けられ、中島川上流部に日本最初の上水道専用ダムである本河内高部ダム(アーチダム)が建設されました

 

そのおよそ10年後、同じく水道用のダムとして兵庫県神戸市の生田川上流に日本最初のコンクリートダムである布引五本松ダムが建設されます

このように、水道事業の発展とともにダム建設もさかんに行われていきます。

大正時代、発電としてのダムが求められる

日清戦争・日露戦争で勝利し、日本の重工業がさらに発展していきます。

重工業の発展により、水道需要のみならず電力需要も高まっていきます

首都圏方面への送電を目的に建設されたのが、栃木県にある黒部ダムです

当時の日本は、戦争をしていましたので、戦争に勝つためのエネルギー源として水力発電ダムの建設は必要不可欠でした。

 

その後も、次々と発電用のコンクリートダムが全国的に建設されていきます。

戦後の昭和時代、ダムの建設技術はさらに進化した

日本の高度経済成長の影響はダム建設にも及びます。

 

1960年代頃から、日本一の高さを誇る黒部ダムなど、現在有名な堤高150m前後の巨大ダムはこの時期から次々と建設されていきます

また、この時期はカスリーン台風などによる水害も多くあったことから、そういった面でも巨大なダムの需要は高くありました。

ダムはすべての人々へ恩恵を与えたものではない

ダムをつくるのに適している場所は、水が溜まりやすい場所である山に挟まれた谷部分です。

 

そこには、多くの集落があり、先祖代々から暮らしている住民たちがいました。

そこへ、急にダムをつくるというのですから、暮らしている人々はただ住み場所を失うに他なりませんでした。

 

当時は、そういった移転をさせられる住民への補償も十分にはありませんから、数々の反対運動が起こります。

移転後も住民は満足な補償金を受け取れず、生活に困窮します。

 

日本国憲法が施行されたにもかかわらず、生存権の尊重は確立されていませんでした。

日本最大のダム反対運動「蜂の巣城紛争」

1953年、日本三代暴れ川の1つの九州の筑後川が集中豪雨により、水害を起こします。

建設省九州地方建設局は、筑後川の水を堰き止める下筌(しもうけ)ダムの建設計画を開始します。

 

ダム建設地域に住んでいる人たちにとっては、ダムが必要であっても自分たちの住む場所を失うだけです。

さらに、ダムの必要性のみが語られるだけで、住民への補償問題は語られませんでした。

 

これに対して、室原知幸という男が立ち上がり、ダム建設反対運動が開始されます。

 

1960年、室原は自費で下筌ダム建設予定地に蜂の巣城というバリケードを作り、ダム建設に反抗しました。

 

4年後、行政の手により蜂の巣城は撤去されるものの、繰り返し蜂の巣城を作り続け、ダム建設反対運動の手を緩めませんでした。

 

法廷闘争では、82件(国からの提訴が28件、室原側の提訴が54件)の訴訟を争いました。

 

1970年、室原は死去。同年11月に建設省と遺族との和解が成立し、反対運動は終わりを迎えます。

「蜂の巣城紛争」から公共事業の在り方にへの考えが変わった

ダム建設は下流への利益のみであり、上流に住む地元民への補償などは十分ではありませんでした。

 

この蜂の巣城紛争から、上流地域に住む住民への保護が重要視されるようになります。

 

水源地域住民の生活安定と福祉向上を図る水源地域対策特別措置法という新たな法律も施行されます。

 

室原知幸は、「公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない」という言葉を残します。

 

ダム建設などの公共事業は、合理的であっても、法律に乗っ取っていても、人々の生活や思いも考えていかなければならないということです(深い・・・)。

 

下筌ダムによって、できた人造湖の名前は、この蜂の巣城紛争にちなんで、「蜂の巣湖」と名付けられました。

 

激しい反対運動が行われた歴史があったことを伝える名前となっています。

ダムは偉大であり、脅威でもあった・・・

ダムの存在は、人間が豊かに生きていく上で必要な存在ありました。

 

ダムというのは、水は溜められ、電気を起こせる、願ったり叶ったりの存在であったはずです。

 

しかし、人間とは愚かな生き物であり、利益を求める余り、ダムを作ることへのデメリットも見出してしまいます。

 

ダムを学ぶことの奥深さ・・・感じてもらえましたでしょうか?

 

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